多様で、寛容で、楽しい学校を目指す神奈川県の小学校教員。2児の父。「登校拒否」を考える交流会実行委員。全国「学校」の遊びとスキマ研究所所長。湘南教職員組合「学校をめぐる諸課題」推進委員。障害児を普通学校へ全国連絡会会員。学校マガジン「おそい はやい ひくい たかい」(ジャパンマシニスト社)、季刊福祉労働(現代書館)など多数寄稿。
(ある日の休み時間)
Aくん「誰だよ〜!また折り紙のゴミがあるぞ〜!!(怒)」
ボク「ホントだね〜。ま、でもさぁ〜、そんなに怒んなくてもいいじゃん!」
Aくん「・・・まいっか。」(と言って、ゴミ箱に捨ててくれる。)
ボク「ありがとね〜。捨ててくれて!!」
(違う日の授業中)
ボク「Bさん、そこにおっこっている折り紙Bさんのと違う?」
Bさん「ちがう、私じゃない〜。」
周りの子どもたち「(口々に)私んじゃない〜。オレも違う〜。」
Cさん(ゴミ箱に捨ててくれる)
ボク「ありがとう!エラいねえ!!もう、あめ玉あげたくなっちゃう。」
(また違う日)
Dさん「これ誰の紙飛行機〜?もう踏まれてるし、いらないよね〜。捨てるよ〜!!」
ボク「ありがとね〜!ほんと誰だろね〜。もう、ほんと、Dちゃんみたいな人がクラスにいて良かった!ほら、折り紙大好き男子たち!感謝しなよ!」
Eくん「それ、やません(ボクのこと)が作った紙飛行機じゃん!」
ボク「あれ、・・・そうやね。Dさん悪いねぇ〜!(笑)」
Dさん「いいけど・・、やません自分で捨てなよ。(と、言いつつ捨ててくれる。)
ボク「はい。すいません。ありがとう!」
【感想】「みんながもう少しずつ我慢をして、誰にも迷惑をかけない社会(クラス)を目指す」のか、「みんなが、もう少しずつ優しく寛容になって、人の迷惑を引き受けられるような社会(クラス)を目指す」のか、どちらをとるのかと問われれば、今、前者を選ぶ人が圧倒的に多くなったように思う。
1.普通の子は存在しない
二十数年小学校担任として、様々な子どもと付き合ってきたが、確実に言えることは「普通の子ども」は、どこにも存在しないということ。子どもはみなそれぞれ個性的であり、多様であった。
しかし、学校には、「目指すべき子ども像」「つけなければならない力」などという教育目標があり、それを支える「評価」や「学校文化」があり、その枠になじみにくい子どもというのは、少なからず存在した。