先生方がお勤めの学校や地域に、外国をルーツとする子どもたちはどれくらいいますか。そんな子たちを取り巻く環境は、少しでも改善してきたでしょうか。中部地方の小学校に勤める藤川純子先生は、海外経験を挟んで25年、外国ルーツの子たちに寄り添い続けてきました。彼女が見てきた25年を振り返りながら、言語、文化の違いや国際理解について考えます。

藤川 純子(ふじかわ じゅんこ)
津田塾大学国際関係学科卒業後、公立中学校に講師として勤め、南米出身の生徒たちと出会う。2000~02年にJICA日系社会青年ボランティア(日系日本語学校教師)としてブラジル・サンパウロ州で活動。フロリダパウリスタ日本語学校を創設する。帰国後、某国際交流財団外国人生活相談員を経て、小学校教諭に。日本語教室担当、学級担任、特別支援学級担任、英語専科等を経験してきた。外国人児童集住校での勤務は18年目。

2022年3月25日、文部科学省の二つの調査発表があった。全国の公立小中学校で学ぶ子どものうち日本語指導が必要な児童生徒数は5万8353人と、前回調査より7227人(14.1%)増えた。うちポルトガル語を母語とする者の割合は全体の約4分の1を占める。

「日本語指導が必要な児童生徒の受入状況等に関する調査(21年度)」の結果(速報)について

日本語指導が必要な子のグラフ
出典:文部科学省「外国人の子供の就学状況等調査(21年度)」

もう一つの調査からは、日本に住む外国人の小中学生のうち約1万人が、21年5月時点で学校に通っていない可能性のあることも判明した。地元の教育委員会が子どもの所在を確認できていないのだ。中でも最も大きく重い課題は子どもの命に関わるもので、三重県内では近年、ブラジル人の子どもの虐待死事件が相次いだ。17年8月、四日市市でナガトシ・ビアンカ・アユミちゃん(当時6歳)の遺体がクーラーボックスに入れられた状態で発見された。19年10月には、亀山市のチアゴ・ファン・パブロ・ハシモトくん(当時5歳)が、同居する男に殴られ病院に搬送されたが、その後死亡した。いずれのケースも不就学・不就園の状態だった。

私が初めて教育現場に出た1990年代は、ブラジル、ペルー等中南米諸国出身の日系人の低賃金労働者が急増した時期だった。90年の出入国管理及び難民認定法の改正以降、「定住者」の在留資格が創設されたことで、日系3世までが日本国内で就労可能となったためだ。

ヤングケアラーだったエリーザ

ブラジル出身の12歳の少女エリーザ(仮名)と出会ったのは、私が中学校の「国際学級」で日本語指導を担当する臨時講師をしていた時だった。彼女は中学校入学前に家族で来日したが、新入学者リストに名前が載っているにも関わらず、彼女も家族も入学式には現れなかった。「どうしたんだろう」。自宅を訪ねてみると、働く両親に代わって小さい妹の面倒を見ているエリーザがいた。「学校に来てみない?」と片言のポルトガル語で言葉をかけると、「行きたいけど……難しい」と寂しそうに笑った。

私の報告を受け、学校職員みんなの奮闘が始まった。まず妹を預けることのできる保育園探しと入園手続きのお手伝い。先に来日していたブラジル人生徒たちの協力も得て、数キロ離れた中学校まで通うための中古自転車や制服も入手した。そして「自転車に乗ったことがない」というエリーザのために自転車に乗る練習にも付き合った。

5月、彼女は初めて登校した。そして3年後に卒業するまで一度も休まなかった。日本語の勉強をがんばったのは言うまでもない。勘がよく、簡単な日本語会話はすぐ理解できるようになっていった。「外人のくせに」といじめられて大泣きしたこともあったが、前向きで朗らかで、何にでも熱心に取り組むエリーザには、次第に日本人、外国人問わず、多くの友だちができていった。私が他校へ異動になる離任式では、泣き崩れ、抱き合って号泣した。その後、私がJICAボランティアとしてブラジルへ行くことが決まったと告げると、「センセイ、ブラジルでがんばって。そしてきっとかえってきてね」と応援してくれた。