子どもたちが学ぶ教育課程を学校が編成する基準として、よく知られているのは学習指導要領ですが、それだけではありません。どの教科を何コマ学習すべきかという基準「標準時数」も、文部科学相が省令で定めています。東京学芸大の大森直樹教授は、その歴史的な移り変わりに注目しました。変化をたどっていった結果、現在の教育課程が抱える問題が見えてきたといいます。大森教授の寄稿を前・後編の2回に分けてお届けします。

大森 直樹(おおもり・なおき)
1965年東京生まれ。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。専門は教育史。東京学芸大学 特別支援教育・教育臨床サポートセンター教授。同大学院では教育支援協働実践開発専攻を担当。著書に「子どもたちとの七万三千日 教師の生き方と学校の風景」(東京学芸大学出版会)、「道徳教育と愛国心 『道徳』の教科化にどう向き合うか」(岩波書店)など。

2017年改訂の学習指導要領(以下、2017指導要領)による現行の教育課程について、新たな議論が始まっている。内閣府の総合科学技術・イノベーション会議、略してCSTI(システィ)の教育・人材育成ワーキング・グループが2022年4月1日に公表した政策パッケージ案には、「教育内容の重点化や教育課程編成の弾力化のための学習指導要領の構造的転換」の文言があった(「内外教育」2022年4月26日)。3つのことを指摘しなければならない。

一つ目は、2017指導要領が2020年に実施されてから2年の時点で次の指導要領の改訂が論じられていることだ。2017指導要領の検証を欠いたままで、次の改訂も行われていくのだろうか。

二つ目は、次の指導要領についての議論が教育現場ではなく、内閣府の会議から始まっていることだ。公教育の中心である真理・真実の教育には、政治・行政からの独立が求められるはずだが、そうした教育権の独立が脅かされることはないだろうか。

三つ目は、次の指導要領改訂の方向性が「教育内容の重点化や教育課程編成の弾力化」といった言葉で論じられていることだ。

いずれも大きな問題だが、ここでは三つ目に焦点を当てていくことにしたい。この方向性に関しては、このときの内閣府科学技術・イノベーション推進事務局審議官の合田哲雄氏(2022年9月から文化庁次長)が次のように述べている。

教科の本質をふまえた教育内容の重点化と教育課程編成の弾力化の必要性を今CSTIが政策パッケージにおいて盛り込んでいるのは、今後、5年間を見通してカリキュラムオーバーロードという課題を真正面から受け止めて〔指導要領の〕次期改訂につなげていく必要があると思っているからです。 (「教育展望」2022年4月号)

「カリキュラムオーバーロード」は耳慣れない言葉だ。カリキュラムは教育課程と同義と考えて良いが、問題はオーバーロードだ。オーバーロードを英語に戻すと overload になり、英和辞典には次の語義がある。

他動詞 1・・・に〔荷物などを〕積みすぎる〔with〕.2〈人〉に〔仕事などで〕負担をかけすぎるː〈人〉に〔情報などを〕過剰に与える〔with〕.3・・・に電流を流し過ぎる.4〘コンピュータ〙〈コンピュータ〉に過負荷をかける. 名詞 過積載;(電気などの)過負荷;(情報などの)過剰,過多.(「ジーニアス英和辞典 第5版」2015年)

合田氏は、カリキュラムオーバーロードをいかなる意味で用いているのだろうか。他動詞2の語義であれば、子どもや教員に教育課程で負担をかけすぎていること、あるいは、子どもに教育内容を過剰に与えていることを課題としていることになる。名詞の2番目の語義であれば、教育課程の内容の過剰、あるいは、過多を課題としていることになる。ちなみに合田氏は文部科学官僚で、内閣府への出向前には2008年と2017年の指導要領改訂を担当した経歴がある。

合田氏が、現行の教育課程のマイナス面について論じようとしていたことは見てとれる。だが、教育課程には多くの構成要素がある。教科や領域、時数の基準と実際、教科内容の基準と実際などである。合田審議官が、これらの中のいずれの要素について、どのように問題にしようとしていたのかは判然としない。やはり、教育課程については、国の側からではなく、教育現場の側から、もう少し腰を落ち着けた事実にもとづく検証が必要だろう。

1.二つ目の教育課程基準

検証に先立ち、次のことを押さえておく必要がある。日本の学校の教育課程は、国が定めた3つの教育課程基準にもとづき各校が編成する仕組みになっていることだ。小学校について述べよう。

一つめの教育課程基準が教科名や領域名であり、文部科学大臣が省令で定めている(学校教育法施行規則第50条)。2015年の省令改正では道徳科が、2017年の省令改正では英語科が、それぞれ新設されてきた。学校はこうした基準により教育課程を編成している。

二つめの教育課程基準が標準時数であり、文部科学大臣がこれも省令で定めている(学校教育法施行規則第51条、及び、別表第一)。2017年の省令改正では新たに英語を5~6年生が年70コマ学習すべきとしてきた。学校はこうしたコマ数を下らないよう教育課程を編成している。各年の省令改正にもとづく標準時数のことを、本稿では以下、「〇〇〇〇標準時数」(例えば2017年の省令改正にもとづく標準時数は「2017標準時数」)と略称したい。

三つめが学習指導要領であり、文部科学大臣が省令(学校教育法施行規則第52条)にもとづき告示の形式で示している。2017指導要領では新たに英語の内容基準ほかを定めており、学校はそれらにもとづき教育課程を編成している。

教育課程の問題は、これまでは一つめと三つめの教育課程基準を中心に論じられることが多かったが、二つめの標準時数の問題も無視することはできない。本稿ではこの点に焦点を当ててみたい。6年生の総時数は、1998標準時数では年945コマだったが、2008標準時数では年980コマになり、2017標準時数では年1015コマ(週29コマ)になった。本稿の結論の半分を先回りして述べると、2008標準時数や2017標準時数はコマ数が多すぎて、子どもの生活や学習を圧迫している可能性がある。この点を改める具体的な方向性についても、本稿に続く原稿では出していくことにしたい。

2.学童の指導員のつぶやき

増加傾向が続いている2008標準時数と2017標準時数は教育課程基準として適正なのか。筆者がそのような問題関心を持つようになったのは、所沢市(埼玉県)の学童保育(6年制)で20年以上子どもと接してきた指導員のつぶやきに接したことが始まりだった。「近頃は子どもたちがなかなか学校から学童に来ない」「やっと学童に来てもぐったりしている」「放課後の遊びを通じて子どもは育ってきたのに」。2008標準時数が2011年に実施されて4年が過ぎた2015年度の言葉である。

子どもの下校時間は学校の時間割によって決まるが、それらは標準時数にもとづいている。年945コマが年980コマや1015コマに変わったことの意味を私は調べるようになった。

3.時数の省令の歴史

まず、2008標準時数や2017標準時数の持つ意味を時数の歴史の中で捉えてみたい。日本の小学校の時数のあり方は、1886~1947年は省令により示され、1947~1958年の過渡期を経て、1958年から再び省令により示されてきた。1900~2017年の省令の変遷を示したのが図表1である(各年の省令の略称は筆者がつけた)。

230222 図表1

1900、1907、1941年の省令では週時数が示されていたが、1958年の省令ではこれを「下ってはならない」とする年時数と週時数(最低時数)が示されて、1968年以降の省令では標準の年時数のみが示されてきた。各期の仕組みが異なってはいるが、以下のことを行えば、1900~2017年の時数を共通のモノサシで比較できる。

一つは、週時数と年時数のバラつきを週時数に揃えることだ。例えば2017標準時数は、小学4~6年生を年1015コマとしているが、これを35で割ると週29コマが算出される。35という数は、年時数から週時数を算出するため1958年の省令から用いられてきた係数である。学校では年に35週以上の授業が行われてきたことを踏まえたものだ。

二つは、小学校の1時数は基本的に45分であるが、1941年の省令のみ40分なので、1941年のコマ数には40/45をかけて補正することだ。

三つは、特別活動の時数の扱いを揃えることだ。1900~1968年の省令には特別活動が時数に含まれておらず、1977年の省令からは特別活動が標準時数に含まれているが、その4~6年生のコマ数は時期により異なっている。比較のために、各年の標準時数から特別活動の時数については差し引くことにする。例えば1977標準時数では小学4~6年生は週29コマであるが、その中の2コマが特別活動の時数なので、それを差し引いて27コマと考える。2017標準時数では小学4~6年生は週29コマであるが、その中の1コマが特別活動の時数なので、それを差し引いて28コマと考える。

図表2さしかえ

こうして作成したのが図表2である。これを見ると、例えば小学4年生の週あたりのコマ数がもっとも多かったのは1907時数(女子)と1958最低時数と1968標準時数のときの週29コマだったことがわかる。2008標準時数は週27コマ、2017標準時数は週28コマだから、それらよりは少ない。このように図表2からは、各時期の週時数の多寡を比較することができる。