コンゴ出身のムサンビャ・アルレア・アーロンさん(26)は2012年、16歳の時に父親の仕事の関係で日本に移り済んだ。日本語学校を探したが、適当なところはなかなか見つからない。友だちもできないまま3カ月が過ぎたころ、知ったのが夜間中学だった。

1月末、東京都教職員組合が主催する教研集会の「人権と教育分科会」が東京都小金井市で開かれた。多文化共生社会を目指し、外国につながる子どもや若者の支援などについて考えるのがねらいだ。講師として登壇したムサンビャさんは、今に至るまでの経過をよどみのない日本語で話しだした。

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夜間中学での経験などについて話すムサンビャ・アルレア・アーロンさん=1月28日、東京都小金井市

コンゴにいたころ、ムサンビャさんは学校が嫌いだった。授業についていけなくて楽しくなかったし、勉強ができないとばかにされたからだ。成績をトップから最後までみんなの前で発表されることも苦痛だったし、先生からたたかれることもあったという。子どもの頃はサッカー選手になりたかったが、勉強に厳しい家庭で、選手の夢は早々にあきらめた。

来日が決まるまで、日本について知っていたことと言えばいえば、アニメ「ドラゴンボール」を生んだ国ということくらい。中国、韓国と言葉や文化が違うこともよく知らなかった。東京都墨田区立文花中学校の夜間学級に通うことになったのは、来日以降、父の知人宅で毎晩のように教わったひらがなとカタカナを何とかマスターできたころだった。

わからないと絵に描いて説明

知らない言葉はまだたくさんあったが、面接のために同校を訪れた際、ムサンビャさんが要領を得ない様子でいると、面接相手の先生は絵に描いて説明してくれた。わからなくても、ここでは否定されることはないんだ。「こちらに伝えようと努力してくれるやさしい気持ちを感じました。この場所だったら勉強したいなと思いました」。

クラスには、中国や、フィリピンなど東南アジアの生徒が多く、アフリカ出身者は自分1人だった。慣れない環境で、肌の色が異なる人たちと一緒に学ぶのは不安だったが、ここで頑張らなければと心に決めて毎日通った。面接してくれた美術の先生は、その後もわからないことがあると絵を描いて丁寧に説明してくれた。給食、部活動、修学旅行、先生と話をする時間もある。ランチタイム以外は授業しかない母国の学校と大違いだった。

そんなある日、公園に行くと、若い人たちがサッカーをしていた。一緒にやりたいとは思ったが、まだ言葉が出てこない。すると、ムサンビャさんがサッカーをやりたいのが伝わったらしく、スマートフォンのグーグル翻訳の機能を使って「サッカー、やりますか」と聞いてくれた。

すごいな、みんななんてやさしいんだろう。「日本に来て、科学技術のレベルの高さに驚いたでしょうとよく言われますが、僕が驚いたのは人のやさしさです。助けようとする気持ちを持っている人たちだなと思いました」。講演では「やさしさ」という言葉を何度も使って日本の学校や先生、友だちを語った。

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東京教研集会「人権と教育分科会」のひとこま=1月28日、東京都小金井市

勉強への苦手意識はあったが、ものづくりは小さい頃から好きで、将来は建築方面に進みたいという思いが徐々に芽生えたというムサンビャさん。夜間中学で学んだ成果を生かして臨んだ都立の工業高校の推薦入試ではトップの成績を収め、入学式でスピーチを任された。

高校ではさまざまな資格を取得し、卒業したらすぐに建築関係の仕事に就こうと考えていたが、せっかく技術のある国にいるのだからと父の勧めもあって、工業系の大学に再び推薦入試で合格した。勉強嫌いだったはずが、いつの間にか克服したようだった。

いつかコンゴと日本の架け橋に

就職の際も「日本の技術をもっと学びたい」とコンゴに戻らず、兄たちとともに日本に残った。さいたま市に本社を置く建築設備会社の社員となってもうすぐ1年。現在は建設中の老人介護施設で、日本の職人たちに指示をする現場監督を務める。職人たちに怒られてもまだ言い返せる立場ではなく、プレッシャーを感じるばかりの毎日だが、いつかはコンゴと日本の架け橋になるような仕事をしたい、と夢を膨らませる。

もちろん、日本でも嫌な思いは経験した。電車で座席に座っていると、隣が空いていても誰も座ろうとしないのは10年以上変わらない。父の転勤に伴ってそれまでの家を離れる時、転居先を探したが、黒人と聞くと立て続けに断られた。「黒人に悪いイメージがある。正しいことをしようとしている人は山ほどいるのに」。やっと見つけた今の住まいも、トラブルが起きた際に通訳を付ける料金として月4千円を加算されている。「こんなに日本語を話せているのに、通訳、必要ですか」と訴える。

講演後、参加者から「日本でも、学校は嫌いな場所でしたか」との質問が上がった。ムサンビャさんは「(学校の印象が)変わりました。学校は楽しい場所なんだと。先生たちからは励ますことしか言われませんでした」と即答した。

外国籍の人にも日本の義務教育を受ける機会を保障する夜間中学があったことが出発点となって、ムサンビャさんのいまがある。外国人ばかりでなく、義務教育を修了しないまま学齢期を過ぎた人、不登校などの事情で十分に教育を受けられないまま中学を卒業した人は少なくない。夜間中学のいっそうの充実とともに、昼間の小、中学校もまた、だれも取り残さない学びの場であってほしい、と強く願う。

※次回の「編集長日記」でも引き続き、夜間中学の話題をお伝えする予定です。