大阪府で依存症患者の支援に携わる渡辺洋次郎さんは子どものころ、学校になじめなくて万引きなどの非行に走り、アルコール依存症が原因で精神科病院への入退院を繰り返しました。深夜の東京新宿・歌舞伎町に集まる「トー横キッズ」が問題になる中、家庭にも学校にも居場所がなく、寂しさを募らせる子どもたちに対して、先生たち大人ができることとは何でしょうか。渡辺さんに、ご自身の経験や学校への思いを聞きました。

渡辺 洋次郎(わたなべ・ようじろう)
1975年、大阪府生まれ。介護福祉士。重度のアルコール依存症であった自身の経験をもとに、依存症患者の社会復帰に関する啓発活動や国内外の自助グループとの交流を行う。著書に「下手くそやけどなんとか生きてるねん」「弱さでつながり社会を変える 渡邊洋次郎対談集」(いずれも現代書館)。

――現在のお仕事についてお聞かせください。

大阪市にある依存症回復支援施設「リカバリハウスいちご長居」で常勤の生活支援員および介護福祉士として働いています。この施設では、依存症の人が地域の中で生活を送るための支援を提供しています。

施設の利用者さんはアルコール依存症をはじめ、薬物、ギャンブルへの依存、摂食障害や窃盗癖に悩む人など様々です。職員である私たちは、利用者さん一人ひとりが病気と向き合いながら、喜びを持って毎日を送ることができるように支援を行なっています。

普段は和気あいあいとした雰囲気で過ごしていますが、時には利用者さんが亡くなったり、精神科病院に入院したりといった深刻な事態も少なくありません。私自身も依存症と精神疾患で苦しんだ過去を持っているので分かるのですが、依存症の人たちの多くは、病気を原因に仕事、住まい、家族などを失い、社会の中での居場所を失って辛い思いをしています。

彼らがもう一度、他人と関係を築いたり、働いたりして社会とのつながりを取り戻すために、一時的な居場所を提供することが私たちの役割だと考え、日々働いています。

――ご自身も、長くアルコール依存症に苦しんでおられたそうですね。そのきっかけが幼少期にあったのだとか。

大阪で5人家族の長男として生まれ育ちました。言葉の発達が人よりも遅く、5歳くらいまで発語がなかったそうです。保育園や小学校では、友だちと協力して課題に取り組んだり、決められた時間を守ったりすることができなくて、先生に怒られていました。当時は時間割の意味も理解できず、ランドセルの中はいつも、教科書を全部入れているか空っぽのどちらかでした。

小学2年生から登校がしんどくなった

自分でも違和感はあったのですが、「何が分かっていないか」が分からなくて、周りに助けを求めることもできずにいました。徐々に周囲からは不真面目なやつだと思われて、自分でもその通りなのだと考えるようになりました。

小学2年生くらいから、学校に行くことがしんどくなって、登校したらすぐに保健室へ向かい、仮病を使って寝ていました。教室に行っても、いつの頃からか、試験になると自分だけテスト用紙の裏に絵を描いているように言われました。先生から諦められていたのでしょう。授業の記憶はほとんどありません。数少ない例外として、音楽の授業でハーモニカを教えてもらったことと、図工で描いた絵に先生が関心を示してくれたのがうれしかったのを覚えています。

私の家は共働きで母親がいないことが多くありました。姉や妹は平気のようでしたが、私には母の不在を耐え難いほど寂しく感じられました。5年生の林間学校の時、母に会えないと発作のように泣きじゃくったほどです。

最初は、両親に「寂しい」と直接訴えていましたが、当の母親を困らせていると子どもながらに理解できたので、少しずつ自分の気持ちを押し殺すようになりました。同時に、直面する問題から逃避しようと、万引きや喫煙といった問題行動に手を染めるようになりました。どこにも居場所がなくて寂しい自分の気持ちをうやむやにしたい、そんな思いがあったように思います。

小学校の頃は、わざととっぴな行動を取って友だちから「変わったやつ」と思われることで、自分の存在意義を見つけていました。中学校に入学してからは、気が小さい上に自分に自信が持てず、同級生からからかわれても、それを嫌だと意思表示できずにいました。

スポーツも勉強もできず、うまく友だち付き合いもできない私でしたが、ある時に、皆がしないような体験を話すことで注目してもらえると気付きました。「警察の取り調べを受けた」「家庭裁判所に出頭した」などと話すと、周りから一目置いてもらえたのです。それからは、非行を際限なくエスカレートさせていきました。何者でもない自分が注目してもらうには、この方法しかないという切実な思いから、無理して不良を演じていたのです。

――アルコール依存症になった経緯をお聞かせください。

中学2年生の頃にシンナーを吸い始め、その後アルコールにも手を出すようになりました。最初は、お酒そのものが好きというよりも、酩酊(めいてい)すると不良グループの先輩たちが面白がってくれることで調子に乗っていました。初めて急性アルコール中毒で救急搬送されたのもその頃です。