今回は私事で恐縮ながら、10月に85歳で亡くなった母の話を書く。幻聴など認知症の症状が出て病院に入院する2年前まで、都内で一人暮らししていた。この2年、衣類などを運ぶため何度も出入りしてきたマンションの一室だが、遺影の写真を探すため、本人が息を引き取って改めて足を踏み入れた。

キッチンの端に伏せたコップ、茶だんすの上の開封済みの菓子、ハンガーにかかった薄手のジャンパー。大半の生活用品は2年前のままだ。必要のないところには触れていないため、今にもあるじが帰ってきそうな気配が漂う。

押し入れの奥にデパートの紙袋を見つけた。革のかばんなどに詰めてある、紙のかたまりのようなものが入っている。開いてみると、それは何十年も前、まだ幼かった自分のため、母が作った犬の形の枕だった。水色のタオル地はとっくに色あせ、傷んではいるが、包み紙に守られて原形をとどめていた。こんなものを後生大事に取っておくとは、と半ばあきれたが、子育ての幸せな思い出の証しとして、その後の長い年月を生きる糧となっていたのかもしれない。

自宅は爆心地から1.6㌔

戦時中の広島に生まれ育った母は、原爆投下の瞬間とその被害を目の当たりにしている。小学2年生の時のことだ。当時住んでいた広島市土手町の家は爆心地から1.6㌔。被爆者健康手帳の記録は、13年前に本人から聞き取った証言と一致している。直前まで近くの町の別の家に住んでいたが、建物疎開で取り壊されたという。

1945年8月6日は、広島の小学校は夏休みではなかったらしい。ただ、警戒警報のサイレンが鳴ってもすぐに帰宅できなかった経験から、心配した祖母に「今日は学校に行かなくていい」と言われていたのだそうだ。実際、授業が行われていた寺が倒壊し、級友が下敷きになった。その母親が助けに行ったが、どうしても救い出すことができず、何度も振り向きながらその場を離れたという。

当時の母の一家は、両親ときょうだい4人の計6人。小学6年と4年の姉2人は少し前まで県北部の農村地域に集団疎開していたが、面会に行った親がかわいそうに思い、連れ戻したばかりだった。弟はまだ生後4カ月。前夜、空襲に見舞われて疲れていたこともあり、6日朝は一家そろって1階の6畳間で寝ていたという。そんな時、警戒警報が鳴り響いた。窓がピカッと光り、赤色などの花火のような光が走ったと思ったら、ドーンと衝撃が来た。

広島市などによると、警戒警報が鳴ったのは午前7時9分で、原爆投下の8時15分より1時間以上前だが、母の記憶の中では「警報の時に原爆が落ちた」と二つが連続している。その間、ウトウトしていたのかもしれない。

2階建ての家の2階部分が崩れて道路側に落ちたが、一家がいた1階は残り、かすり傷を負った程度で隙間から外に出られた。「我が家では、西方の爆心地側の壁が大量の放射線を遮るバリアになったのではないか」。祖母に抱かれて避難した母の弟はそうみる。見渡すと多くの建物が壊れ、近所の人も自分たちと同じように着の身着のまま、家の外へ避難していた。

そこではもう暮らせないので、少しでも被害の少ないところに逃げなければ。まずは比治山という小高い丘の近くを通る路面電車の通りを目指した。広島駅方面へぞろぞろと歩く列の中には、熱で皮膚が垂れ下がった両手を前方に差し出し、「水をくれ」とうめき声を上げている人もいた。幼かったこともあり、どこをどう歩いたかは覚えていない。夜になって着いたところは市北東部の中山という地区。見ず知らずの人の家に泊めてもらった。

手の甲や足にできもの

翌日からはトラックに乗せてもらって、祖父を探しに市内の心当たりの場所を回った。「やけどや大けがを負った被爆者や遺体をたくさん目にしたと思うけれど、あまり記憶にない。怖いとも思わなかった」と母は生前言っていた。結局、祖父と再び会えたのは原爆投下から1週間ほど後になってからだった。

一家はさらに北部の可部という地区に疎開している知人を頼り、納屋に泊めてもらった。しばらくすると、家族みんなの手の甲や足などに、丸いできものができて痛んだ。つぶすと中はウミになっていた。被爆していない人からは気持ち悪がられたという。

戦中、旧陸軍の糧秣廠(りょうまつしょう)に務めていたという祖父は終戦後、家族を滞在先に残したまま何日も帰ってこないことがあった。1週間ほどするとコメや砂糖、乾パンのほか、ようかんやガムなどの菓子までたくさんリアカーに積んで戻り、家族だけでなく周りの人たちにも配っていた。おそらくヤミで手に入れたものだろう。

可部に10月ごろまで滞在した後は、広島湾に浮かぶ能見島に渡り、翌年の正月は島で迎えたという。

母から聞き取った話の概要はこのようなものだ。取材メモに「母の被爆体験1」と記していたように、本当はさらに聞き取りを続け、被爆当日の移動中の体験や避難生活の様子、そして原爆投下をどのように受け止めていたのか、聞いてみたかった。被爆国の政府が核抑止力頼みの安全保障政策を支持していること、世界で再び核使用のおそれが高まっていることをどう思っていたのだろう。聞くチャンスはもう、永遠に訪れない。

絵を描くことが好きで、高校卒業後、広島市内のデザイン事務所で勤務していた10代後半、自転車に乗っていて交通事故に遭い、嗅覚を失った。「においがわからないから、食べ物の本当のおいしさを味わえない」とよく嘆いていたのを思い出す。そして晩年は難聴を患って電話での会話ができなくなった。会って大声で話すか、筆談か、あとは携帯メールがコミュニケーションの手段となった。

部屋を整理していて、母の自作の絵手紙を集めたアルバムを見つけた。そういえば趣味の水彩画で描いては新聞に投書していた。多くは身近な花や野菜、動物などを題材にしており、いくつかにはそれぞれの旬をめでるような言葉を添えている。その中に、梅らしき花を描いた絵手紙があった。それだけは、他の絵手紙とは毛色の違うメッセージが記されていた。「世界中に 春よこい」。

大した意味はないのかもしれない。でも、どんな思いを込めたのだろう、と想像してみる。

231030 絵手紙