学校が夏休み中の8月12日、東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)で開かれた夏休み特別企画「若い世代が伝える戦争・空襲の記録」に出かけた。同センターは、戦争の惨禍を伝えていくため、貴重な資料をもとに調査・研究や普及活動に当たっている民立民営の機関である。この時期は毎年、空襲などの戦争体験をさまざまな形で子どもたちを含む来館者に伝えるイベントを開いている。

前半は、初代館長だった作家の故・早乙女勝元さんの絵本作品「死んでもブレストを」の朗読劇が行われた。東京大空襲の犠牲になった墨田電話局の28人の電話交換手の女性たちの物語だが、かろうじて生き延びた人からの証言をもとにした実話とされる。披露したのは2人の女性で、地元・江東区にある中村高校演劇部の3年生とその卒業生だった。

空襲禍の通信室 克明に描く

ブレストとは交換手が使っていた送受器のことで、相手方の呼び出しを聞くレシーバーと送話器からなる。オンライン会議に使うヘッドセットのようなものだ。電話回線を接続する業務を担った交換手は、女性に開放されていた職業のひとつで、早ければ高等小学校を卒業後3カ月の養成期間を経て15歳で就いたという。宝塚調の袴姿にあこがれて目指す少女もいたらしい。華やかに見える一方、電話は国土防衛の大切な武器とされ、空襲警報が鳴っても上司の命令なしに交換室を離れることは許されなかった。彼女たちは「通信戦士」だった。

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「死んでもブレストを」の朗読劇を披露する高校生と大学生=2023年8月12日、東京都江東区

大空襲に見舞われた際の都内と局舎の交換室の様子を、朗読劇は克明に描き出す。

「窓という窓が真っ赤になり、交換台はどの人の台もパイロットランプが仕掛け花火のように光っていました」。黄色ランプは一般回線、赤色は軍事施設の重要回線だったが、「黄も赤もこんなにいっせいに付いた交換台は、かつて一度も見たことがありません」

「局舎の東側から襲いかかった火の手は、たちまち南側の正面入り口にも周り、次いで交換室の西側入り口にも延びて、3面から鉄筋コンクリートの建物をかみ砕くかと思えるほどです」

生き延びた一人の記憶では、主事の男性に「南へ逃げろ」と言われ、火をよける毛布を受け取り、同僚の一人と手をつないで局舎の外へ飛び出した。炎の激流にもまれて毛布はいつしかなくなり、手をつないでいた同僚ともはぐれたが、別の同僚2人と合流でき、火の手を逃れて一命をとりとめたという。

一夜明け、見渡す限りの焼け野原となった東京の下町。宿直勤務から外れていた交換手のまとめ役の女性が駆け付けた局舎は、コンクリートの残骸となっていた。そしてその一室で、同僚の多くが炭のように黒こげになって亡くなっているのを目のあたりにする。

「コンクリートの壁際にひざまずき、壁に頭を付け、ぴたりと互いに身を寄せ合い、みんな炭みたいに黒こげになって、頭はほとんど、たどんと同じなのでした」

「体の奥で、ちろちろとまだ青白い炎が燃え続けている人もいます」

「あんたたち、なんとむごいことに……。みんな、そこにいるんでしょう、何か一言でいいから、言ってちょうだいよ。どうしたら、どうしたら、元通りになるのよ」

戦争体験者と中高生が交互に語る

事実関係の説明や情景描写などは抑え気味のトーンで聞かせ、せりふの部分は電話交換手が乗り移ったように感情を込めて表現する。亡くなった交換手たちと同世代の2人によるメリハリの利いた朗読は臨場感たっぷりで、思わず聴き入った。

後半は、東京大空襲を体験した竹内静代さん(92)=東京都調布市=の戦中の暮らしを、竹内さん本人と中高生らが交互に語って聴かせる試みだった。冊子となっている手記をもとに、香蘭女学校中等科・高等科(東京都品川区)の生徒と卒業生5人が順番に務めた。

城東区(現在の江東区)生まれで1943年に高等女学校に入学、2年生からは工場に働きに行くことになり、「私が働くことでお役に立てるのだ」と張り切って出勤したこと、大空襲の2週間ほど前にも住んでいた家が空襲で焼かれて近所の知人宅に世話になったことなどを、竹内さんに代わって丁寧に説明した。

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空襲体験などの質問に答える竹内静代さん(正面左から3人目)=8月12日、東京都江東区

大空襲当日の様子は竹内さん自身が話した。その夜は大きめの共同防空壕にいたが、火が迫ってくるのを知り、両親と3人で避難することを決意したという。

「空襲警報がウーウーと鳴って、半鐘がカーン、カンカンカンカンとものすごい音を立てて、飛行機はガーーーッといつもより低空で飛ぶのが聞こえてくるの。燃えがらも、かわらも飛んできて、それは恐ろしかった」

「当時、荒川の一番下流にかかる葛西橋まで来たところで、父は(江戸川区側へ)渡ろうと言ったけれど、渡る人はほとんどいなかった。母は逆に、『みんなが行く方へ逃げよう』と言ったの。でも父は『だめだ、ずうっと先を見てみろよ、真っ赤じゃないか、暗い方へ逃げなきゃだめなんだよ』と言って、渋る母を説き伏せて葛西橋を渡ることにしたのです。風が強くて真っすぐ立って歩けないほどでした」

体験者の肉声は今なお生々しい。でも中高生たちも、その後の暮らしや終戦について、本人の語りとの境目を感じさせない語りを披露した。自らの内面から生まれ出てきたように感じられる言葉もあった。

「生まれてからずっと戦争をしていたから、『戦争が終わった』というのがどういうことか見当がつかなかった」

「電灯の黒い布を外したら部屋が明るくて、別の世界を見るようだった」

「どんな気持ちだったか、より深く考えて」

彼女たちは、どんなことを考えて発表に臨んだのだろう。朗読劇を披露した桜美林大1年の金井花梨さん(18)は「自分ではないだれかの人生を生きているという自覚を持つことがモットーです。その人がどんな気持ちだったのか、より深く考えて大切に読もうと心がけました」。香蘭女学校高等科2年の伊名岡紗也(さや)さん(16)は「自分が経験していないから難しい面もあるけれど、若い世代だから表現できることもあると思います」と話した。

戦争体験者の証言や記録をもとに、当時の人物の気持ちを思い、自分の中で消化しながら、朗読や演技の形で表現する。その営み自体、戦争体験の継承に他ならない。体験を受け継ぐうえで、朗読や演劇に大きな可能性があることをあらためて思い知った。

同時に、見る側の課題も浮かび上がった。語り手や演じ手の言葉から紡ぎ出される情景を、どれくらい自分の頭のキャンバスに描けるだろう。戦時を追体験できるだけの想像力を持ち合わせていたい、と思う。