最近よく聞く言葉のひとつに「ギフテッド」があります。「神から授けられた」という意味の英語が語源で、突出した知的能力など特異な才能を持つ人たちですが、反面、生活する上で苦手なことも抱えているといいます。学校になじめないケースもあり、文部科学省が支援に乗り出しました。ギフテッドの当事者で、同じ立場の子どもたちの支援に取り組む大学生、小池優希さんに思いをつづってもらいました。

小池 優希(こいけ・ゆき)
2002年生まれ、東京大学教育学部教育心理学コース4年。高校時代は「異才発掘プロジェクト ROCKET」にて、第5期スカラー候補生として活動。現在はNPO法人ROJEが運営する「ギフテッドプロジェクト sprinG」において、当事者の視点から学生スタッフとしてギフテッド支援を行っている。JAPAN MENSA会員。

子ども時代は嵐だった

「学校が終わりのない拷問に感じられる」という感覚を、想像したことはありますか。

こんにちは、小池優希です。東京に住む大学4年生で、教育心理学を学んでいます。卒業論文が進まなくて焦ったり、友達とカラオケに行ったりする、至って普通の大学生です。そして、「ギフテッド」と呼ばれる平均より高い知的能力を持つ人々の一人です。

“普通の大学生”になるまでに、たくさんの壁がありました。学校の授業は私にとって、退屈に耐え続ける時間でした。自分にとって適切なペースではなく、はっきり言ってしまえば遅すぎたからです。同級生と接する時には、どの言葉なら「通じる」のかを考えることが日常茶飯事でした。周りと語彙(ごい)の量が大きく違ったからです。

知的な能力と情緒的・社会的な発達が釣り合わず、「知っているのにうまく振る舞えない」ことも悩みでした。クラスメートは普通に過ごしているのに、自分だけ”学校でうまくやれないダメ人間”なんだと思っていたのをよく覚えています。高校では「勉強しないのに成績がいいなんて」「もっと努力して模範となれ」という圧力を受け、どうしていいか分からなくなりました。

それでも、私は運が良い方です。「きっと向いてると思う」と、科学オリンピックへの出場を勧めてくれた先生。できる部分も苦手な部分もそのまま受け止め、面白がって話を聞いてくれた友人。色々な人との出会いの結果、現在はとても楽しい学生生活を送っています。

支援の場に立ってみて

こうした経験を活かし、大学2年生からはギフテッド特性を持つ子どもたち、そしてその保護者の支援活動を行う団体に参加しています。当事者や家族と関わる中で強く感じられるのは「高知能=すごい」と考えるよりも、むしろ付随する困難にフォーカスするべきだということです。

例えば、「ギフテッド」とされる子どもたちは興味や思考過程が周りの子どもと異なることがあります。その結果として周囲から孤立したり、誤解されたりすることがしばしばみられるのです。高い知能ゆえに学習内容の習得が早く「学校の授業が退屈だ」とやる気をなくしてしまった子どもたちにも出会ってきました。(読者の皆様が大人のまま教室の椅子に座らされ、45分間小学校の算数を学習させられるところを想像してください)

また、ギフテッド特性として、知的能力と社会的・感情的な能力の発達にズレが生じる「非同期発達」や、刺激に対する感受性の高さである「過度激動(OE)」、さらに完璧主義や正義感の強さなどが存在しています。こうした特性は創造性の源になることもありますが、学校や社会で生きづらさを抱える要因でもあるのです。「知識はあるなら行動も大人びているはず」「なんでそんなに繊細なの?」「気にしすぎなんじゃない?」といった周囲の見方に、追い詰められてしまう子どももいます。

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「異才発掘プロジェクト ROCKET」が開かれた東京大学先端科学技術研究センター。「突き抜けた能力を持つが、学校になじめない子どもたちに学びの機会を」というROCKETの理念に救われたような気持ちだった=東京都目黒区

さらに、知的能力のばらつきから「言語能力は高いのに、情報処理が遅いため書くのが苦手」などと学習上のつまずきを抱える子どもたちも少なくありません。こうしたアンバランスさは知能の高さに隠れて見過ごされることがあるものの、本人の内部では強いストレスとなります。

保護者の悩みも深刻です。「学校に行かなくなってしまったけど、この子は大丈夫なのか」「周囲に子どものことを説明しても『自慢』だと思われる」「感情も好奇心も激しくて、親だけで対応するのが難しい」などなど。 きちんと相談できる場所も、まだまだ不足しています。

「知能が高いなら大丈夫でしょ?」という理解が、適切でないことは伝わったでしょうか。

「天才」ではない私たちから

文部科学省は 2021年度より「特定分野に特異な才能のある児童生徒」の支援を掲げており、「ギフテッド」という言葉をニュースで聞く機会も増えています。「これほどの人材を埋もれさせるのはもったいない」「ぜひ国の役に立ってほしい」という意見も、「ただコミュニケーションが下手なだけ」「“本物”は支援なんて必要ない」という意見も、数えきれないほど見てきました。

私は現在米国の大学でオンラインコースを履修し、ギフテッド教育を学んでいます。 「ギフテッドの生徒にも、他の生徒と同じように毎日新しくてチャレンジングなことを学ぶ権利がある」。教科書のこの記述が、全てを示していると思います。果たして現在の日本の学校は、この権利を平等に保障できているでしょうか。

私たちの多くは、「国や組織に役立つ万能の人材」「ごくまれにいる飛びぬけて優秀な天才」ではありません。かといって、自分の知的能力を誇示したいわけでもありません。他の人と同様に何かを学んだり、友人を作ったりして、自分のままで過ごせることを願っています。

例えば「テストの点は良く理解も早い。でも授業は聞いていないように見える」という子どもがいる場合、その子は毎日退屈という拷問に耐えているのかもしれません。その場合、「授業を聞きなさい」と叱るよりも、授業内容に発展的な課題を組み込む方が効果的である可能性があります。

230711 氷のレンズ
「異才発掘プロジェクト ROCKET」の「氷で火を起こせ!」というプログラムでの写真。「氷のレンズを作って火を起こす」という課題を与えられ、スマートフォンも教科書もない中での学びの難しさを感じた

必要なのは、社会のために優秀な人間を育成する「エリート教育」ではないと思っています。エリート教育は基本的に国家や社会のためのものですが、現実のギフテッドたちは必ずしも「優秀な人材」という訳ではありません。むしろ、通常学級で困難を抱えていることの方が多いのです。「有用な人材だから支援する」という強い期待は、子どもたちにとって有害になり得るでしょう。

ギフテッドの子どもたちにサポートが必要なのは、彼らが“有用”だからではなく、通常の教育では満たされない特別なニーズがあるからです。授業で発展的な課題を与えるなど「凸を伸ばす」だけでなく、非同期発達に伴う感情コントロールの難しさに対して、心理的アプローチを実施するなど「凹に寄り添う」ことが必要と考えています。

「ギフテッド支援」として求められているのは、高い能力を自由に発揮できるような、そして苦手な部分に寄り添うような教育ではないでしょうか。学校がより良い方向に変化し、私のような思いをする子どもが今後出ないことを望んでいます。