東日本大震災の発生当時、宮城県女川町の中学校教諭だった佐藤敏郎さんは、石巻市立大川小学校の6年生だった次女を津波で亡くしました。生徒たちの多くも身近な人を失い、避難所でのつらい生活が続く中、佐藤さんはどんなふうに彼ら彼女らに寄り添い、自らの現実とどう向き合ってきたのでしょう。そして、そこから私たちは何を学ぶべきでしょうか。あの日から丸12年となるこの機会に、佐藤さんの思いに触れてみてください。

佐藤 敏郎(さとう・としろう)
1963年、宮城県石巻市生まれ。元中学校国語教諭。「大川伝承の会」共同代表。東日本大震災当時は、宮城県女川第一中学校(現在の女川中学校)に勤務。当時大川小学校6年の次女が犠牲に。震災後は防災を担当、県の防災教育副読本の編集委員も歴任。2015年3月退職。現在は、大川伝承の会の他、NPOカタリバアドバイザー、ラジオのパーソナリティーなど幅広く活動している。2016年、生徒と一緒に「16歳の語り部」(ポプラ社)を刊行、「平成29年度児童福祉文化賞推薦作品」を受賞。

もうすぐ12年

2011年3月、私は牡鹿半島の海の町女川の中学校の教務主任だった。11日は卒業式前日で式の準備中だった。立っていられないほどの揺れは3分以上続いた。誰かが「大津波が来るぞ」と叫んで学校の坂を駆け上がってきた。生徒を誘導し、高台の学校のさらに高い裏山に避難、眼下を町が流れていった。

そのまま女川に生徒と一緒に泊まることになり、自宅には帰らなかった。13日に妻と息子が会いに来て、末っ子のみずほの遺体があがったことを知る。多くの児童や教職員が犠牲になった石巻市の大川小学校で。

あれからもうすぐ12年になる。

ガレキの中の新学期

ガレキに埋もれた女川で新学期が始まった。ほとんどの生徒は家が流され、身近な誰かを失っている。生徒たちに、その現実にどう向き合わせればいいのか。

5月、国語の授業で一人の生徒が「見たことない 女川町を 受けとめる」という句を書いた。