9月1日は防災の日でした。兵庫県芦屋市立打出浜小学校の永田守先生(55)は、27年前の阪神・淡路大震災で被災して以来、被災した子どもたちの心のケアや教育復興に取り組んできました。毎年のようにどこかで災害が起きる中、学校は災害をどのように子どもたちに伝え、また被災した子たちにどう向き合っていけばいいのでしょうか。永田先生の思いに触れて、考えてみませんか。

永田 守(ながた まもる)
芦屋市立小学校教員。阪神・淡路大震災で被害が大きかった精道小学校にて、教育復興担当・心のケア担当を歴任。児童の「心のケア」をはじめ、「追悼式」や「語り継ぐ会」などの「震災をわすれないとりくみ」に携わる。2007~14年、EARTH(兵庫県教育委員会「震災学校支援チーム」)心のケア班に所属。13年、東日本大震災被災地校派遣で宮城県の小・中学校で「心のケア」研修会の講師を務める。19年、兵庫県優秀教職員受賞。教育実践論文として、「震災をわすれないとりくみを学校文化に」、「打小発『きらめき言動』のとりくみ―自尊感情を育む『安心して学び合える学校・学級文化』づくりをめざして―」(小学館 第55回「実践!わたしの教育記録」授業・学校づくり部門受賞)、「道徳科における『震災をわすれない』とりくみの可能性を探る―『震災遺構の教材開発』の実践をとおして-」(第29回上廣道徳教育賞 佳作)などがある。

永田守先生
兵庫県芦屋市立打出浜小学校教員の永田守さん

自身の被災体験から

阪神・淡路大震災が起きて、28年目に入った。当時、私は新卒 6 年目の若手教員。下宿していた神戸市東灘区で被災した。住んでいた2階建ての文化住宅は全壊。私は2階に住んでいたため、奇跡的に一命をとりとめた。しかし、1階では下敷きになった近所の知り合いが亡くなった。がれきを必死にかき分け、肩までは掘り起こすことができたが、首の上に大きな家のはりがかぶさっており、どうしても助けることができなかった。学校に行くと、すぐに泊まり込みでの避難所運営や学校再開業務に奔走することになった。心が休まることがなかった。そして、目の前の命を助けることができなかった自分を責めた。3年間、震災の映像やニュースを見ることができなかった。もちろん震災体験を語ることもできなかった。そこには、震災から遠ざかりたい自分がいた。

しかし、私が震災と向き合う転機が来る。芦屋市立精道小学校への転勤が決まったのだ。精道小は、芦屋でも震災の被害が多く、校区の7割が全半壊した。児童8名、保護者6名の尊い命を失った。毎年、1月17日には追悼式を行うなど、学校として震災と真正面から向き合っている学校だ。私にとって初めての追悼式……。自分の子どもを亡くした遺族や友だちを亡くした子どもたちが、言葉を紡ぎ、泣きながら命の尊さや生きる意味について語る場面を目の当たりにして、頭をガツンとなぐられたような衝撃を受けた。私とは比べものにならないほどの悲しみを抱えている人たちが震災と向き合っている……。「私も震災と向き合わなければ」と、背中を押された瞬間だった。